美女が待っているのは自分の夫か不倫相手か、それとも…
【第3回】美女ジャケはかく語りき 1950年代のアメリカを象徴するヴィーナスたち
「美女はいったい何を待っているのか?」という今回のテーマだが、「Music for Bachelors」 で振り返る美女は、いったい誰と電話していたのだろう? 情人か? そこに帰ってきた夫に何気なくにこやかに振り返っているとしたら? 女優のジェーン・マンスフィールドがネグリジェ姿で艶然と微笑むこのジャケットも妄想しようによっては、相当にいやらしい。
そう、「相手は誰なのか?」を想像しだせば、妄想力は限りないのだ。
まったく似たようなポーズのジャケットにポール・スミスの「By The Fireside」がある。太ももも露わなネグリジェ姿の金髪美女は、いったい誰を待っているのだろう? とてもたんに暖炉で暖を取っているようには見えない。そもそもひとりならミュール脱いで裸足でいいでしょ? とつっこみたくなるのだ。
このよく似たポーズの2枚のアルバムが、どちらも金髪美女をモデルとしているのも意味ありげである。愛人的ではあったとしても、けっして「妻」のようには見えない。ブロンドとは、古くからそうしたエロティックな表徴でもあったのだ。
映画でのキャラ設定でもわかるように黒髪よりも金髪のほうが尻軽だったり、派手好きということになっている。現実とは別にね。女性大統領候補だったヒラリー・クリントンが、黒髪を金髪に染めて、いかにも堅物そうなキャラクターを一変させてしまったのはその好例。
暖炉といえばもう一枚。「KISS OF FIRE」 も金髪美女。しかも横たわって肩紐が落ちて…と、そんなところばかり見ているのだが、デ・ロス・リオスのラテン・ミュージックはきわめて優れたものだ。美女ジャケだからって、イージーなムード・ミュージックとは限らない。
金髪と暖炉の炎が、まるで美女の「燃えるような熱情」を表して、しかもカメラ目線。となると彼女は誰を待っているのか?
そう、このレコードを買った私なのだ。しかも床の敷物に横たわって。
サバービアの倦怠きわまれり。品行方正、中流モラルよりも炎のキスだ!
「KISS OF FIRE」と同じ1957年にリリースされたラスティ・ドレイパーの「ALL TIME HITS」 は、まだ、なんとかサバービアの倫理に踏みとどまっていそうなロマンティシズムを感じるが、ほんとうのところはわからない。握りしめた男の手。半開きの唇。切ないまなざし。彼女が待っていたものは? それもおそらく私だろう。
結局、美女ジャケは、そこに男が登場したとしても美女が待っている誰かとは、限りなく「私」なのだ。そして美女が誰かを待っているような気配を濃厚に漂わすようになった1950年代後半とは、とてもいやらしくエロティックな妄想天国だったように思う。
サバービアの倦怠も、そう悪くない。